改めて『ごんぎつね』を読みなおしてみた。
きつねの話の中では代表作の様に有名だが、
しかしながら、あまりに切ないお話だ。
お互い他にやり様があっただろうに、
悲しい結末に胸が痛くなる。
気持ちのすれ違い、
一言で言うなればそんなお話。
この話の主人公、
話の趣旨だけで考えるなら、
あえてキツネである必要はないのかもしれないが、
しかしながら、それでいてキツネであるという事には
僕には意義があるかの様に思う。
僕は今確かめるかの様に、
きつねの魅力について再び考えている。
僕にとって、
その姿・形、仕草だけでも充分に魅力的には違いないのだが、
しかしながら、
やはり最も魅力的と感じるのは民俗学から考えるキツネの在り方だ。
神として妖怪として、そして時に愛嬌ある隣人として、
古代からずっと話継がれてきてきたキツネ。
神という信仰が生まれた経緯には中国の影響も大いに示唆されているが、
様々な大陸の学問等の余波を最大限に考慮してみたとしても、
やはりそれをここまで暖めたのは間違いなく日本人の文化だ。
『ごんぎつね』の主人公がキツネである理由も、
そこと無関係ではないはずだと思う。
いたずら好きの動物として、そして優しく律儀な動物として、
この話がこんな形で生まれてきたのは、
間違いなくそこに根っこがあるはずだと僕は感じている。
その根っこに触れる瞬間こそ、
たまらなく僕を、
キツネをいとおしいと思う存在に仕立ててしまうのだ。
ここに生まれてきたと言う古き血の繋がりを想い、
見た事もない古き時代に心馳せる。
これも一種の歴史のロマンではなかろうかと、
僕は思ってしまう。
きつねと神社も僕の中では深く繋がっている。
どちらも、古き人々の思想を辿る興味深いツール。
歴史・民俗学のロマンだ。
僕はこの『ごんぎつね』に感じる。
この話はまっこと、狂おしい。